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『記述』が苦手

「物語・小説の読み取りの中心は、その時々の登場人物の心理・心情をとらえることだ」の誤解

語彙力が足りない

学校の国語の成績はよいのに、塾や予備校でやるテストや模試の結果がついてこない

読書量と国語の成績について

問題をはやく読みなさいという誤解

テストで時間が足りない

「国語ができないから、算数の文章題も……」ってホント? 

『記述』が苦手

記述が苦手というお子さんの解答用紙を実際に見てみると、別に「記述」だけ得点率が低いわけではなく、「選択」の正答率も「ぬき出し(書きぬき)」も低い場合が少なくありません。

以前に、ある模擬試験で、解答タイプ別に得点を集計したものと総得点との関係を調べてみたことがあるのですが、総得点の高い受験者はどの解答タイプでも得点率が高く、総得点が低ければタイプ別の得点率も低く、ある解答タイプだけ極端に正答率が高い(あるいは、低い)受験者はほぼ皆無に近かったことを覚えています。指導者として持っていた感想からすると、ある意味当然の結果でした。

また、このように答えた子の解答用紙を見てみると、同じ×でも、「記述」部分は白紙の×や中途半端に答えが書かれていての×が多く、「選択」部分は答えが書かれていて×が多いという傾向が見て取れます。

次に、なぜ「記述」の部分に白紙が多いのかを尋ねてみると、とりあえず「記述」は後回しにしておいて、「選択」は全部答え、「ぬき出し(書き出し)」の答えを探していたら時間がきてしまった、などという答えが返ってくることが多くあります。そして、テストではなく、つまり、いくらでも時間をかけることができるはずの家庭学習の場でも、同じような順序で設問を解き、最後は集中力を失って、やはり「記述」は白紙か中途半端な解答のままで、いわゆる「答え合わせ」をしているケースが多いのです。
したがって、この「『記述』が苦手だ」という答えは、「『記述』は面倒なので、嫌いだ」と置きかえた方がよさそうです。

さらに言うと、こういった子どもさんが問題を解いているところをじっくりと見てみると、「選択」の問いでもこの「面倒だから」が顔をのぞかせているケースがよくあります。それは、問いを見て「選択肢」同士を比較して、ハイ答え、という解き方をしている場合が多いのです。問いを読んで本文にもどり、選択肢を検討するための材料を得たうえで選択肢を検討するのではなく、なんとなく「こんなことが書いてあったよなぁ」という程度の根拠で、選択肢を選ぶのです。「選択」の問いですから、これでも一応答えは出せますし、答えが「当たる」場合もあります。また、問題文が短い、ある程度本人に記憶力がある、正解と誤りの選択肢の内容がかけ離れている、などの条件がいくつか重なると正解が得られてしまうこともあります。しかし、そういった解き方では安定して得点を取るのは難しいでしょう。

こういった場合はまず「面倒」=「嫌い」を断ち切らなくてはなりません。これはかなり時間がかかります。こうした生徒さんの場合、国語という1教科だけに対してこういう感覚を持っている場合の方が稀で、学習一般に対してこのような思いを抱いていることが多いからです。「面倒」なのはたしかにその通りなのですから、無駄な「面倒」と「ご褒美」のもらえる「面倒」とを分けて示し、「『面倒』だけど、やって良かった」と思えるような体験を積み重ねさせてやる必要があります。これは、国語には限りませんから、彼、あるいは、彼女が取り組みやすい分野の「面倒」から克服させていくことになります。

私は、こうした場合は、とにかくご家庭との連絡を密にし、他教科のことでも口出しできる状態を作り上げることを最初の目標に置きます。たとえば、算数で、計算をした跡を綺麗に残す、文章題中で明らかにされている数量関係を図に表す、といった方面から入る必要がある場合が多いからです。

「物語・小説の読み取りの中心は、その時々の登場人物の心理・心情をとらえることだ」の誤解

一般的によく言われていることで、ある意味私も正しいと思います。ところが、ご自身の子どもさんの「物語・小説」の成績が悪いと、このことと直結させて、「うちの子は、人の気持ちが分からない」などと言い出す方もいらっしゃいます。ふと横を見ると、こう言われた当の本人が、真っ赤な顔をしてうつむいていたりしています。その子は、人の気持ち、お母さんの気持ちがちゃんと分かっているわけです。
こんなお子さんでも、たとえば

・太郎君は、お父さんに叱られた。
      ↓
・太郎君は、悲しくなった。
      ↓
・太郎君は、泣き出した。

などと図示したうえで、「太郎君が泣いたのは、なぜでしょう」などと問いかければ、「お父さんに叱られて、悲しくなったから。」などと、すらすらと元気よく答えるでしょう。つまり、「うちの子は、人の気持ちが分からない」のではなく、「問題文の中から『出来事→心理心情→言動』という関係をつかみ取ることができない」というのが、本当のところなのです。本文中では、こうした心理・心情をとらえるための手がかりとなる部分が他の内容に交じって書かれていますし、本文中に書かれている順番も必ずしも時間順ではありません。また、本文中に、ある一人の登場人物のある特定の心理・心情だけが書かれているのはまれですし、学年が上がれば問題文も長くなります。その結果、先に挙げた「関係」がとらえられなくなってしまっているのです。

こういった場合は、短い文章を使い、感覚的に解くのではなく、ひとつひとつ根拠を本文からもとめながら、「原因→結果」の関係をとらえるといった作業を繰り返し、これが問題の「解き方」というものなのだ、ということをしっかりと教える必要があります。そして、徐々に妥当なレベルの文章にもっていってきます。

ただ、この場合、市販の教材を使うとなると、6年生に4年生の問題集を使って指導する必要が出てきます。

これは、上手にもっていかないと彼や彼女のプライドをひどく傷つけることにもなるので注意が必要です。該当学年より下の学年向けの教材を使うと、いくら表紙を隠しても、本文中にひらがなが多く使われていたり、習ったはずの漢字にふりがな振ってあったり、何よりも内容そのものが幼稚であったりするため、子どもは敏感に察知し、それだけでやる気をなくすケースがあるからです。

私の場合は、幸いにして、模試やテスト、問題集の作成もしておりますので、それと同じ要領で、6年生なら6年生らしい体裁の、5年生なら5年生らしい体裁のその子向けのオリジナル問題をパソコンを使って作成し、対応しております。これなら、たとえば入試等ではほとんど扱われたことのない本、その子が大好きで普段から良く読んでいる本を題材にして問題を作成することが可能です。子どもたちの間で人気のあるシリーズものの物語を素材にして問題を作ることも、「図鑑」などを素材にして説明文の問題を作ることも可能です。(著作権の問題があるため、ご注文をいただいても市販はできません。)

語彙力が足りない

「気持ちを表す言葉を知らない」というような語彙力に問題のあるケースについてお話ししましょう。

・太郎君は、お父さんに叱られた。
      ↓
・太郎君は、泣き出した。

読者の対象年齢が上がれば、一語で心情を表す言葉などは、書かれていない方が普通になります。こうした場合には、それ以外の部分から情報を集め、「叱られた→『悲しくなった』→泣き出した」なのか、「叱られた→『悔しくなった』→泣き出した」なのか、「叱られた→『嬉しくなった』→泣き出した」なのか、といったことをとらえる必要のある場合に語彙力が関係してきます。
「自分のせいではなく、お父さんの勘違いで叱られた。でも、反論できない。涙が出てきちゃった」と、そこまでは分かっているのに、「反論できなくて『悔しい』」の「悔しい」という言葉を知らない。知っているけど、出てこない。あるいは、主人公が「腹を立てている」「怒っている」ことは分かるのだが、選択肢を見ても答えがない(実は、答えがないのではなく、選択肢中の「憤る」や「憤慨する」の意味を知らない)、などというケースです。

これについては、語彙力を付ける必要があることは論を待たないのですが、ただ「辞書を引きなさい」と言ってみたり、「市販の語彙集」を買い与えたりするだけでは無理です。
「辞書を引け」「語彙集を読め」という指導は、とりあえず形をつけて、後のことは子どもに押しつけ、責任を回避する指示のように思えます。言った当人も、それで語彙力がつくとは思っていないでしょう。たとえば、大人向けの辞書で「主観=対象について認識・行為・評価などを行う意識の働き」を調べたとしても、数秒後には忘れてしまうのはもちろん、子ども向けの辞書で「主観=自分だけの見方や考え方」を調べたとしても、忘れるまでの時間が長くなる程度の違いがあるだけでしょう。また、しっかりと覚えていても、実際に使うとなると容易なことではありません。

有効なのは子どもが「お兄ちゃんのケーキの方が大きい」などと言ったときをのがさず、教えるのです。物差しなどを持ち出して、同じ大きさであることを確認しつつ、言ってやるのです。「あなたにそう思わせたのが『主観』なのだ」と。付け加えるなら、物差しで測った結果が「客観的な事実なのだ」と日常会話の中で実感させます。

「辞書を引く」というのは、語彙力をつける入口にすぎないということです。

私なら、どんな言葉を辞書で引いたのかを親御さんと共有することを目指します。
などと言うと、そんなことを延々と続けるのかと思われるかもしれませんが、数回続ければ、子どもは辞書を引いた状況、つまり、問題文そのものとその言葉を併せて頭に入れる癖がついてきますから、延々と続ける必要はありません。ただ、続ける必要がなくなるまでの期間に個人差があるだけです。

学校の国語の成績はよいのに、塾や予備校でやるテストや模試の結果がついてこない

これは、特に、小学生で、わりあいハキハキしたタイプの子どもさんに多いようです。「塾や予備校でやるテストや模試の結果がついてこない」という客観的なデータや「学校の成績は良い」というある程度客観的なデータに基づいていますから、親御さんを悩ませることになります。
こうしたことが起こるのは、「学校の成績」がどのようにして決まるのかに関係があります。「学校の成績」には、テストの得点以外の要素が関係しています。その割合は、高校よりは中学校、中学校よりは小学校、そして、小学校でも低学年ほど大きくなります。先ほど、「特に小学生で」と書いた理由もそこにあります。
たとえば、先ほどの

・太郎君は、お父さんに叱られた。
      ↓
・太郎君は、悲しくなった。
      ↓
・太郎君は、泣き出した。

を、授業で扱うとすると、どうなるでしょうか。先生が「なぜ、太郎君は泣き出したのかな」などと発問をします。すると、A君が「悲しくなったんだよ」などと答えます。さらに先生は「なぜ、悲しくなったのかな」などと発問します。するとまたA君が(なにせ彼は、ハキハキした活発な生徒ですから)「ハイ。ハイ。ハイ」など言いつつ元気よく挙手して「お父さんに叱られたんだよ」などと答えます。するとこれを受けて先生が「そうだね。太郎君はお父さんに叱られて悲しくなったから泣いたんだね」などとまとめてくれるでしょう。先生の記憶には、「積極的に授業に参加し、自分の発問に対し的を射た答えを連発するA君」というイメージができあがるわけです。もちろんA君自身もよい気分になりますから、この後も積極的に授業に参加していくことになります。

これはこれでよい循環ができているわけですから、何ら否定するものではありません。
ただし、これを「学校の国語の成績は良い『のに』、塾や予備校のテスト結果が悪い」と「逆接」でつなぐこと、あるいは、「学校の国語の成績が良い『から』、塾や予備校のテストでも良い成績がとれるはずだ」と「順接」でつないでしまうことが、問題なのです。
たしかに、同じ国語ですから、学校と塾・予備校のテストで共通する要素はたくさんあります。共通する部分の方がしない部分よりたくさんあると言えます。しかし、違っている部分、学校ではほとんど問題にならないことが、テストでは大問題になったりすることもあるのです。

日本語で文章を書くには「我慢」が必要です。たとえば先ほどの「なぜ、太郎君は泣き出したのか」という問いに対する答えですが、「悲しくなって……」と書き出してしまったら、その後にいくら解答欄のマスが残っていても「お父さんに叱られて」といった内容を後に加えるわけにはいかないのです。「叱られた」のが「悲しくなった」原因なのですから、語順としては「叱られた」→「悲しくなった」とせざるを得ないのです。たしかに「泣き出した」直接の理由は「悲しくなった」なのですが、それを最初に書くわけにはいかないのです。修飾語は被修飾語より前、主語は述語より前になくてはならないからです(もちろん、倒置法と言って、あえて修飾語を被修飾語の後、主語を述語の後に置く修辞法もありますが、テストの解答では認められません)。会話でなら、「悲しくなったんだよ、お父さんに叱られて」で通用しても、書き言葉、テストの答えとしては通用しないわけです。
以上のような日本語の特性から、キレのある会話で「優秀だ」という評価を得ていたA君がテストでは点が取れないということも、ありうるわけです。

また、先ほど、先生とA君のやり取りの中で、先生が「なぜ」と問いかけているのに対して、A君に「悲しかったんだよ」と答えさせましたが、この文末も、テストでは減点の対象になります。「悲しかったから。」とする必要があります。「なぜ」と問うテストで、「悲しかったから。」と答えた生徒と「悲しかった。」と答えた生徒がいれば、前者に満点以上のボーナスポイントを与えるというわけにはいきませんから、当然、後者は減点、あるいは×となってしまうのです。
つまり、同等の読解力を持っていても得点には差が出てしまうわけです。

このこういった場合には、問題集の問題をそのまま解かせるのではなく、その問い自体と子どもさんの答えの組み立て方に対する理解度によって、制限字数をなくしたり、変えたりして答えさせるとともに、添削指導をしっかりとしてやることが有効です。また、このような「手よりも先に口が動く子ども」は、概して理解力はありますから、場合によっては、文法(言葉の決まり)で学習したことを解答を組み立てる際にも意識するようにアドバイスすることで、解決する場合もあります。

このようにして答えの組み立て方がある程度理解できたら、今度はそれをテスト中に効率よく行うため、「正しい下書きの仕方」の訓練も併せて行います。「下書き」と「清書(つまり、解答用紙に書く)」の違いを、文字を走り書きするか丁寧に書くことだと考えている子どもがたくさんいます。このような子は、「50字以内で」などという問いになると、問題の余白に60字程度の仮の答えを走り書きして、後はひたすら言葉を削ったり言い換えたりする作業に没頭しています。要は字数調整のためだけに下書きをしているのです。目的が、解答内容の吟味よりも字数調整になってしまっているため、初めはそれなりの内容を持っていた仮の答えが、修正を重ねるうちにどんどん悪い方向に変化していく場合がほとんどです。集団指導で、テスト中に教室を巡回していると、最初に見回った時は「おお、なかなか良いことを書いているな」と思っていたのに、まわってくるごとに「ありゃりゃ!?」になっていき、解答用紙に向かうころには、とんでもない解答に変わっていた、などということがよくありました。こちらは「あーあ」と思っているのですが、当の本人は字数調整がうまくいったせいでしょうか、できあがった解答を見ながら満足げに頬をゆるませていたりするのです。

もちろん、下書きをする目的のひとつに字数調整があるのは事実です。しかし、字数調整をすることで、解答の内容に不備が生じたのでは意味がありません。
下書きをする目的は、大きく分けてふたつあります。

まず、ひとつめの目的は、思考の流れとそれをまとめた文章の流れは逆になるため、それに対応することにあります。
先ほどの「太郎君の話」を例に取ると、「泣き出した理由」は「悲しくなったから」。「悲しくなった理由」は「叱られたから」。これが思考の流れです。これを一文にまとめると「叱られて悲しくなったから。」になります。この程度の文字数なら下書きをせず、頭の中で組み立てられますが、たとえばこの問いでも、制限字数が30字以内や40字以内だったとすると、さらに「お父さんが太郎君を叱った理由」を書く必要が出てきます。この内容も、思考の流れとしては最後に出てくるのですが、文章の組み立てとしては、「叱られた」と言う内容よりも前に書く必要があります。

下書きをする目的のふたつめは、字数調整です。ならば、さっきの子どもと同じではないかと思われるかもしれませんが、方法が違います。先ほど、字数調整をしているうちに内容がどんどん悪くなる例を挙げましたが、それは、仮の答えにふくまれている内容の優先順位が把握できていないことによります。どんな内容が重要で、どんな内容がそれに次ぐのかといったことを考慮せずに字数調整を行ってしまったことが原因なのです。

先ほど「叱られて悲しくなったから。」と答えをまとめましたが、何か足りないことに気づかれたでしょうか。「叱られた」を答えにふくめるとすると、次に必要になるのは「だれに」「なぜ」になります。そう、この「だれに」が欠けていたのです。一気に答えを書くとこうした内容が欠けていることに気づかなかったり、書いてあるのに字数調整のためについ削ってしまったりするというミスが起きやすくなります。それを防ぐために、内容を部分ごとに区切って吟味する。そのために下書きをするのです。当然、優先度の高いものから書き出していくのですが、答えとして書いていく順序は違いますから、下書きをして、それを見ながらどう組み立てていくか考えるわけです。

このようなことを実践を通して子どもに理解させる必要があるのですが、理屈は今述べた通りでも、身につけさせるには日々の指導の中で、かなりの工夫が要ります。というのも、このようなことは1日訓練したからといってすぐに身につくわけでもなく、身についたとしても制限時間のあるテスト中に実行するまでにはさらに時間がかかります。日々進歩していても、×が○に変わるまでには長い時間がかかります。本人は「面倒だ」という気持ちをなんとかなだめながら実行しているのですが、結果になって現れないとめげそうになります。したがって、指導者はまだ○にはならないけれど、進歩しているのだということを実感できるように指導する必要があるのです。

読書量と国語の成績について

「本を読むのが嫌いだから(本を読まないから)、国語ができない」「本を読むのが好きなのに(本をたくさん読んでいるのに)、国語の成績が低い」というご相談もよくお受けします。
具体的には、保護者の方に「先生、読書好きにするには、どうしたらよいですか」などと尋ねられ、「どうして、子どもさんを読書好きにしたいのですか」と逆に尋ねると、「国語の成績が芳しくないものですから」などというケースがこれに当たります。
問題文は一般に出回っている文章がもとになっていますから、これは妥当な考えのように思えます。また、たしかに読書量が多ければ、先に挙げた「語彙力」も自然に身につく可能性が高くなります。また、書き手ごとに違う、文章の裏に流れる「空気」のようなものにもたくさんふれることができるわけですし、何より文章を読むことに対する抵抗が少ないのですから、国語のテストで点を取ることに対して有利に働くのは事実でしょう。現実に、「この子の国語の成績は、読書量に裏打ちされているのだなぁ」と思うお子さんもたくさんいます。しかし、だからといって、「無理矢理にでも本をたくさん読ませれば、国語の『テスト』の成績が上がるはずだ」とか、「本を読むのが好きなのだから、国語の『テスト』でも良い成績が取れるはずだ」というのは、乱暴すぎる論理だと思います。

まず、動機が違います。
本を買う、借りるときのことを思い出してみて下さい。題名も筆者名も見ずに、本を買ったり借りたりはしないでしょう。高額の本を買う場合なら、その本を手にとってある程度中身を確認すると思います。もともと興味があったもの、本屋さんや図書館で興味をそそられたものですから、買ったり借りたりしてその本が手にはいると、はやく家に帰って「読みたい」という気持ちが高まっていることと思います。
テストの場合はどうでしょうか。何についての説明文なのか、どんな主人公の物語なのかはもちろん、題名や筆者・作者名すら、問題を手に取って見てみるまで分からず、また、それらを選ぶ権利は、受験者にはないのです。
さらに、読書は基本的には「イン・プット」のみの行為であるのに対して、テストでの読解は、問いで問われたことに答えるのが前提になる、つまり、「アウト・プット」することが前提になっているという違いがあります。読書でも、稀には感想文を書くことが前提になっていたり、読書会に出席するための準備として本を読むこともあるでしょうが、ほとんどの場合、読書とは本を「読む」ことを通して自分自身の内面に働きかける行為だと言えるでしょう。
このような違いを意識したうえで、国語のテストに対する読書の効用といったことを考えないと、無用な圧力を子どもにかけることになってしまいます。

「読書が好き」と言う場合、特に小中学生の場合は、大きく二つのタイプに分けられると思います。

ひとつは、「物語・小説を読むのが好き」というタイプです。
小さなころから大人に読んでもらったり、自分でも読んできた「絵本」の世界の延長線上にある読書です。中には自分で「お話」を書いたりする子どももいます。こうした子は頭の中で登場人物が動き回るという感じで本を読んでいます。基本的には「物語」の読解で力を発揮しますが、落とし穴が全くないわけではありません。

私が指導したことのある、ある子のケースですが、その子はなんと第一志望の私立中学入試で、問題文の世界に入り込み、主人公と同化し、問題文を読みながら泣いてしまったというのです。読後は「悲しみ」でいっぱいになり、設問に答えるためもう一度本文を読み直したとのことでした。

物語・小説を読む醍醐味のひとつに、いずれかの登場人物に感情を移入しながら読むということがありますが、テストの問題文を読む際には、こうした読み方がマイナスに働くこともあります。このような読み方をしている場合、本文に書かれていたことと自分が読みながら感じたことの区別がつかなくなってしまうことも良くあるようです。これが正しい選択肢を選ぼうとしたときに邪魔をすることがあります。

ある浪人生の女の子が、こんなことを言いに来たことがあります。
「先生、センター試験の小説の正解の選択肢は、どうしてあんなにつまんないんですか」と。どういうことなのかを聞き出してみると、「私は、こんな風にも読める、あんな風にも読めると思って、よくわからなくなって解答集で正解を確認すると、選択肢中で一番『つまらない』と思ったものが、いつも正解だ」と言うのです。彼女の言う「あんな風」や「こんな風」に当たる選択肢を見てみると、本文に根拠を求めると、「そこまでのことは言えない」といった内容、つまり、本文に書かれていることからするとかなりの「飛躍」が見られる内容になっていました。「本文に根拠を求めれば、百人が百人とも了解できる選択肢が正解」なのですが、これを彼女の表現を借りて言い換えると「つまんない選択肢が正解」ということになります。

そこで私は、「つまんない」かどうかは別として、本文中に根拠のある選択肢が正解、無いものは不正解、「次の文章を読んで、後の問いに答えなさい」とは、そういう意味だといった説明をしました。「つまんない」と表現することの妥当性は別にして、彼女はそれ以来、「本文中にしっかりとした根拠があり、自分の想像力を排除した『つまんない』選択肢を選ぶこと」で、センターレベルの問題では高得点が維持できるようになりました。

小学生にも似たようなことを言われた経験があります。やはり「物語」です。
授業で、主人公の考え方・感じ方に関する選択の問いを解説した後の、休憩時間中のことです。その子は「さっきの説明で、イが正解だということはよくわかった」、でも「あんな考え方・感じ方をする人がいるなんて信じられない」と言うのです。本好き同士が読後に感想を語り合っているのなら楽しいひとときと言えるのですが、「進学塾」の指導者としては、ひとつ釘を刺しておかなくてはならないと思いました。と言うのも、その子が「本文を読み直して、最初はイが答えだと思ったけど、小学生(文中の主人公)がそんなことを考えるのは『変だ』と思ったから、他の選択肢を答えにした」と言ったケースです。

「物語・小説」に関する例を挙げましたが、こうしたことは「物語・小説」に限りません。スキーの原田選手に関する文章を模試で扱ったことがあります。長野オリンピック前に、彼はスランプに陥ったそうです。当時の主流は、速いスピードで低く飛び、滑空することで飛距離を伸ばすというものだったそうですが、原田選手はどうしてもそうした飛び方ができなかった、かつての高く飛び出す飛び方がしっかりと身についてしまい、うまくモデルチェンジすることができなかったのです。さて、ではどのようにしてこのスランプを克服したかというと、ある日奥さんに「原田は原田なんだから、あなたはあなたらしく飛べばいいのよ」と言われたことがきっかけだったという話でした。無理をしてモデルチェンジをするのではなく、自分は自分なんだから、自分らしい飛び方で勝負しようと気持ちを切り替えることができたわけです。

さて、そこで私が作った問いですが、「原田選手はどのようにしてスランプを克服したのでしょう」というものです。細かな表現は忘れましたが、ほとんどの受験生が「自分の弱点と正面から向き合い、厳しい練習によって新たな飛び方を身につけた」といった、本文に何ら根拠のない誤りの選択肢を選んだのです。

小中学生が読むのにふさわしいと思われている本、学校で校長先生や先生達が言いそうな内容を持った選択肢が、本文の内容とは無関係に選ばれたのです。この場合は、読書体験がこの結果にどのように影響しているのかは分かりませんが、「本文」ではなく、これまでの体験が、選択肢を検討する根拠になってしまっているという点では、先に挙げたものと同じだと言えます。

小中学生の読書好きのふたつめに話を進めましょう。

「お話」大好き少年・少女に続くのは、自分が興味のある分野の説明文をどんどん読み進めている子どもたちです。

昆虫好きから始まって、昆虫図鑑、昆虫の生態を紹介する本へと進んでいくタイプです。別に昆虫に限らず、子どもによって、対象が植物だったり、魚だったり、料理だったりするわけです。
説明文、論説文の問題文を読むときは、結論にいたる要点をしっかりととらえながら読みましょう、要点と例を区別して読みましょう、などとよく言われます。私もそのような指導をします。ところが、このようなことを全く意識せずに、しかもこのようなことが自然にできてしまうことがあります。どんな場合でしょうか。

もちろんそれは、自分が興味を持っている対象が問題文に出てきた場合です。
先ほどの昆虫大好き少年が、国語のテストを受けたら、問題文がテントウムシの生態についてだったなどという場合です。この場合は、多分、彼が「なるほど」と思った部分がそのまま要点になっていることが多いと思われます。結論も、彼をうならせることでしょう。高得点が、自然に、というか、特別な作業や読解を「意識しなくても」得られる可能性があるということです。

こうして、実際に高得点が得られた場合、それはそれでいいのですが、「だから僕は説明文は読めるのだ」、「うちの子は、説明文は読めるはずなのに、得点が低いときがあるのはのはなぜだろう」と、思ってしまうことが、問題なのです。先に挙げた、「テストの成績が良いときと悪いときで差がある、どっちが実力なのか分からない」などというケースがこれにあてはまります。別にカンニングをしたわけではないのですから、「テントウムシの生態」で高得点を得たのも実力です。しかし、その子が「天体の動きについて述べた文章」で低い得点しか取れなかったのも、実力なのです。これも先に挙げたように、「テストの文章」を受験者が選ぶわけにはいかないのですから、「興味が持てない文章」が出題されたらどうすればよいのか、対策を立てておかなくてはならないのです。

問題をはやく読みなさいという誤解

「テストになると時間が足らなくなってしまう。どうやら文章を読むのが遅いらしい。」だから、「はやく読みなさい」といつも言っている、というケースです。
この場合も「時間不足」は事実なのですから、あながち間違ってはいないように思えます。何がまずいのでしょうか。

まずいポイントは、ふたつあります。

まず、ひとつめは、何を基準に「遅い」と判断しているのか、ということです。文章を読む速さは「慣れ」と密接な関係がありますから、「読書量」と相関があると判断できます。もし、子どもさんの読む速さを親御さんの読む速さを基準にして判断したら、よほど特別なケースでもない限り、「遅い」ということになってしまうでしょう。
いやそうではない。お兄ちゃんが同じ学年だったときと比べて「遅い」のだ、お友達の○○ちゃんと比べて「遅い」のだ、とおっしゃる方もいるかもしれません。

ふたつめの問題点は、「はやく読め」と言われたからといって、「はやく読めるものではない」ということです。
先ほど、読む速さと読書量には相関があると言いい、子どもと親の読む速さの違いについて述べましたが、私は職業柄、一般の大人よりはかなりはやく読めると思います。そんな私と一緒に喫茶店などに入り、自分が新聞を読んでいたら、私に「僕もその新聞が読みたいので、はやく読んで交替して下さい。あなた、僕より読むのが遅いですねぇ」などと言われたらどうでしょうか。「そんなのは無理だよ。それに何て自分勝手なヤツだろう」などと思うのではないでしょうか。それと同じことを子どもに言っていることになります。「はやく読めるようになったら、時間不足が解消できる」というのは、ある意味正しいのですが、「はやく読め」と言われたら、その瞬間から「はやく」なる、翌日から「はやく」なるなどとは考えられないということです。頭の中で処理できる速さ、理解できる速さを超えたスピードで読むなどということは、無理なのです。

つまり、このケースの最大の問題点は、「できるはずのない指示を出している」ということにあります。それでも子どもが「そんなことできるわけないじゃないか」などと思って、無視してくれたらまだ救いがありますが、真に受けてしまうととんでもないことが起こる可能性が高くなります。

「遅くてもよいからしっかりと読み取ることを目的に訓練を続けていたら速さもついてきた」。これはあり得ることでしょう。ところが、「曖昧でもいいから、とにかくはやく読む訓練を続けていたら、正確さもついてきた」。これはどうでしょうか。問題文を読み終わって問いに入ると、ポイントとなるべきところがとらえられていないわけですから、答えを出すまでにそれまで以上に時間がかかり、さらに時間不足となるでしょう。そこでさらに「もっとはやく読め」という指示を出し、子どもがそれに従っていったら……。ということです。

このテーマに関するコラムとして『中学入試 入試直前期の過ごし方 「親は……」』にも詳しく書いていますので興味のある方はご参照ください。

テストで時間が足りない

子どもが「テストで時間が足りない」などと言い出すと、「時間配分を考えなさい」「易しそうな問いから解いていきなさい」などとアドバイスをしてしまう親御さんがいます。「してしまう」という表現からもお分かりのように、これも問題のあるアドバイスです。

これにはふたつの問題があります。

ひとつめの問題は、「易しそうな問い」を正しく見わけるには、かなりの学力が必要だということです。そうではない子どもにこのようなアドバイスをすると、まず間違いなく、「選択」の問いを解き、「ぬき出し(書きぬき)」の問いを解き、時間に余裕があれば「記述」の問いを解く、それも「記述」の問いは制限字数の少ないものから解く、という順に解くようになります。つまり、「易しそうな問いから」という指示が、単に答えを書くのに「面倒さを感じない問いから」にすり替わってしまうのです。

時間配分は「選択」の問いでも、難易度の高い問い、答えを確定するまでに時間がかかる問いもあることを理解している。「ぬき出し(書き出し)」の問いでも、読解段階で何らかのチェックがされていない内容については、探す際に思わぬ時間を取られる場合があることを知っている。「記述」の問いで、たとえ制限字数が多くても、ほとんど本文の表現がそのまま使えるため、たとえば本文をそのままぬき出して「から。」でしめくくるだけだから易しいと言える問いもあることを知っている。このようなことを理解したうえで、どの問いがそれらに当たるのかを見ぬくことができて、初めて可能になるのです。俗に「時間配分を考えるのは、時間無制限で8割9割の得点が可能なレベルになってから」と言われるのは、このためです。

ふたつめの問題点は、こうした「時間配分をテストではなく家庭学習でも行うとどうなるか」ということです。ひとつめに挙げた問題をクリアしている子でも、このような指示は「時」を考慮しないと意図しない問題が生じます。「易しい問いから解け」+「制限時間で終了」となるわけですから、その子が「難」だと判断した問いは解かないということになってしまいます。その子は、そのときの力で解ける問いだけを解き、手に余る問いは解かないのですから、その手に余るレベルの問いはいつまでたっても解けないということになってしまいます。入試までにまだたっぷりと時間があるにもかかわらずこのような指示を出してしまうと、力はそこで止まってしまうのです。

一定のレベル、つまり、「問いの難易度がおおよそとらえられるレベル」になったら、このような指示をいつかは出す必要があるのですが、その「時」を見きわめる必要があるのです。

このテーマに関するコラムとして「答案の見直しって、子どもにできるの?」にも詳しく書いていますので興味のある方はご参照ください。

「国語ができないから、算数の文章題も……」ってホント? 

まずは、「国語ができないから、○○もできない(○○の部分には、算数や理科、社会の文章題といった言葉が入ります)
結論から言いますと、「国語ができないから、算数の文章題も解けない」という考え方ですが、前半の「国語ができない」と後半の「算数の文章題も解けない」を「から(つまり、因果関係)」で結ぶのは誤りではないか、と思います。
ポイントは、言葉は意思伝達の道具であるだけでなく、思考の道具でもあるからだということです。
「言葉は、何のためにありますか?」と尋ねると、子どもたちの多くは人に何かを伝えるため、人から何かを伝えてもらうためと考えるようです。ですが、実は、ぼーっとしている時以外は、頭の中にさまざまな言葉が浮かんでは消えていっています。
たとえば、朝起きて「あーっ、よく寝た」「今日は、何曜だったっけな」「水曜か」「あっ、算数のテストじゃん」「でも、昨日ちゃんと勉強したからいいよな」など、いくら書いてもきりがありませんが、こんな風です。
これは、思考とは言えないだろうと思われるかもしれませんが、今、出てきた算数のテストの場面でも、「バスに、3人のお客さんが乗っていました。次の停留所で2人降り、4人乗ってきました。今、バスには何人のお客さんが乗っていますか。」という問いを読んで、「3人乗っていて、2人おりたのか。3人引く2人だな。解答用紙の〈式〉の欄に『3−2』と書いてと、答えは1だから、『=1』と書いて、次は、そこに4人乗ってきたんだから、1人足す4人だな、では『1+4』と書いて、答えは5だから『=5』と書いて、答えの欄に『5』と書いてと、オッと、自分で『人』も書くのか、危ない危ない、忘れるところだった』などど「言葉」を使って、考えているわけです。
「バス」「3人」「お客」「乗る」……といった言葉を読み、その言葉を使って考えていく、思考を進めていくのですが、思考を進めるためには、ただオウムのように読んだ言葉を繰り返すのではなく、その言葉の指す内容がわかっている、概念化ができている必要があります。簡単な例を挙げれば、「降りる」とはどういうことかがわかっているから「3人から2人を引けばよい」とわかるのであって、わかっていなければ、最初に乗っていた3人の「3」に対して次の「2人」の「2」をどうしたらよいのか、わかりません。
別に、勉強にかぎりません、このコラムはとある喫茶店で書いているのですが、手元に新聞があります。そこには「政府の東日本大震災復興対策本部は29日、首相官邸で会合を開き、復興・復旧の事業計画と工程表を改訂した。」という記事が出ています。これを理解するためには、「政府」「東日本大震災復興対策本部」「首相官邸」「会合」「開く」「復興」「復旧」「事業計画」「工程表」「改訂する」といった名詞・動詞の表す概念や「〜は〜で〜を〜、〜の〜と〜を〜」といった助詞が文の中でどのような働きを担っているのかが理解できている必要があります。そして、これらの知識を総動員したうえで、この一文の意味を理解し、「なぜだ?」「どうなるんだ?」などといった自分なりの疑問を持ち、その答えを探しつつ、記事を読み進めていくことになります。自分なりの見解に達することもあるでしょう。
長くなりましたが、言いたかったのは「私たちは、言葉を使ってモノを考えているのだ」という当たり前と言えば当たり前の事実です。と言えば「なあんだ」と思われるかも知れませんが、これはとても大切なことです。なぜなら、言い換えれば「知っている言葉、概念化ができている言葉の量、語彙(力・量)によって、その人が考えられることは決まってきてしまうのだ」ということだからです。
このようにまとめると、「いやいや、言語を教える、言葉を学習する教科は国語なのだから、やはり、それは『国語ができないから』ということになるのではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、あらゆる語句の概念を国語で学習するわけではありません。
たとえば、「『割る』とはどういうことか」。「竹を割る」「卵を割る」などといった「割る」とは、ということです。
「割る」とは「あるものを、二つ、あるいは、いくつかの部分に分けること」といった意味であるということは、「国語という教科で扱っている」といっても、まあ、いいでしょう。しかし、「9を3で割る」「1を2で割る」というような「割り算」の概念は、当然ですが、算数で扱います。
この「〜を〜で割る」という表現ですが、「竹をナタで割る」と言えば、この「〜で」の「で」は「手段・方法または道具を表す」格助詞ということになります。また、「卵を台所で割る」といえば、この「で」は「動作・作用の行われる場所を表す」格助詞ということになります。ほかにも、「コップを不注意で割る」なら「原因・理由・動機を表す」格助詞の「で」ということになります。
では、「6を3で割る」の「で」は、いったいどういう意味を表す「で」なのでしょうか。国語辞典には、格助詞「で」の意味・用法として「動作・作用の行われる場所を表す」「動作・作用が行われる時を表す」「動作・作用を行うときの事情・状況を表す」「手段・方法または道具を表す」「原因・理由・動機を表す」「動作・状態の主体を表す」(以上、三省堂『スーパー大辞林』より)が挙げられています。
この中で選べば、「手段・方法または道具を表す」「動作・状態の主体を表す」がいちばん近いのでしょう。でも、私たちが生活している現実世界には「3」という「道具」は転がっていません。いや、そもそも割られる「6」も見かけません。3「人」の人とか、6「個」のケーキなどというように具体物として存在するのであって、抽象的な「3」や「6」として存在するわけではありません。
このように見てくると、庭で見かけた「石」を、道具箱の中に転がっていた「ハンマー」「で」「割る」という表現と、「9を3で割る」という表現とを同列に論じることはできないのではないでしょうか(もちろん、同じ「割る」という言葉を使っている以上、共通する部分は、あるのですが)。
あるいは、こんな例を挙げることもできます。
算数の学習中に「6個のケーキを2人で同じ数ずつ分けると、1人分は何個になるでしょう」という問いを読んだ子は、「6個」「2人」を抽象化して「6」と「2」にし、この「6」を均等に「2」つに分けるのだから、割り算を使うんだな(ここで、「分ける」→「割る」の置き換えが必要です)。すると、計算式は「6÷2」になって、その答え(つまり、商)は「3」、この「3」は「6個」のケーキを「2人」で分けた1人分のケーキの個数だから「3」「個」だ、と考えるでしょう。
また、「6個のケーキを1人に2個ずつ分けていくと、何人に分けられるでしょう」という問いを読んだ子は、「6個」「2個」を抽象化して「6」と「2」にし、この「6」を「2」つずつに分けるのだから、割り算を使って、計算式は「6÷2」、その答え(つまり、商)は「3」、この「3」は「6個」のケーキを「2個」ずつ分けたときに分けられる人数だから「3」「人」だ、というように考えるでしょう。
つまり、「6÷2」には、「6を2つに分けると、いくつずつになるか?」という意味と、「6から2を引いていくと、何回引けるか?」というふたつの意味があることになります。「6÷2」という式の表す意味を説明するには、言葉を使うのですが、この式がどういう意味を持つのかは、これまた当然のことながら、算数で学習するのです。まさか、これらの文章題を解く思考過程の中の、「6÷2=3」は計算だからこの部分のみが算数の領域で、他は「言葉を使っているのだから」国語の領域だなどとは、誰も考えないでしょう。
他教科でも同じです。
「南」という言葉の指す方向、「中」という文字も持つ意味、「高度」という熟語の意味の習得は国語で、といえるかもしれませんが、「南中高度」という語について「太陽が真南にきたときの時刻を南中時刻、そのときの太陽の高さ(角度)を南中高度と言う」などということは、理科で学習します。
「改新」「改革」「革命」「維新」が、どう違うのか。どういう意図をもって命名されたのか。「変」「事変」「役」「戦争」の違いと、その命名の意図については、社会科で習得します。
学校で、理科の教師が「○年生の某は南中高度の意味も知らん。国語科の先生は何を教えているんですか」などといったクレームを国語の教師につけるでしょうか。また、進学塾で、線分図という言葉を知らないのは国語科の講師の怠慢、その図が書けないのはその子が通っている学校で図工の指導が適切に行われていないせいだと言い出す算数科の講師がいたとしたら、その講師はまともに付き合ってもらえないでしょう。

算数についても「『文章』題」という言葉を入れることによって、「国語の成績」と「算数の『文章』題の成績」が「因果関係」で繋がってしまうように見えます。しかし、「文章」という言葉を取っ払って、「ウチの子の算数の成績が良いのは、国語が得意だからなんですよ」「国語の勉強をしっかりやらせたら、ウチの子の算数の成績がグングン伸びたのよ」と言う「ママ友」がいたら、「エッ!」と思いますよね。

ここまで「国語ができないこと」と「他の教科の文章にかかわる問いが解けない、あるいは、苦手だということ」を「因果関係」でつなぐのは、誤りではないか、というお話をして参りました。もし、これらが「因果関係」でつながるとしたら、次の事例はどう解釈すればよいのか、という例を挙げて、とりあえずの締めくくりとしたいと思います。
プロフィールにもありますように、私の活動のひとつに「家庭学習支援(家庭教師)」があります。
ご依頼の動機にはさまざまなケースがありますが、中には「算・理・社はずば抜けて良くできている(そこそこできる、あるいは、志望校の合格レベルに達している)のに、国語が芳しくない。何とか国語もそこそこできるように(あるいは、足を引っぱらないように)してもらえないか」というものもあります。
もうお気づきだと思いますが、もし「国語ができないこと」と「算数の文章題が解けないこと、あるいは、理科や社会の文章題が解けないこと」が、原因と結果という「因果関係」でつながっているのなら、このようなお子さんは世の中に存在しないことになってしまいます。
しかし、現実には「他の3教科、あるいは、4教科に比べて、国語の成績だけが極端に低い」というお子さんも多々いらっしゃいます。国語の成績は芳しくないものの、算数の文章題はかなり難度の高い応用問題でもスラスラ解く子、理科で習った自然現象についてその因果関係をきちんと整理して説明できる子、社会で学習した歴史用語の指す意味内容を詳細に説明できる子など、おおぜいいらっしゃるのです。
この事実から考えても、「国語の成績が振るわないこと」と「他教科の文章にかかわる問いが解けないこと」を「因果関係」としてつなぐことはできないでしょう(もちろん、英語科の英訳、和訳と国語は他教科の他分野に比べれば関係が深いと言えますから、これは除きます)。

ですから、やはり文章、語句にかかわる問いであっても「算数は算数」「理科は理科」「社会は社会」で学習するのだといえます。

この25年間、受験生本人から「先生、国語ができないせいで算数も理科も社会もできないんです。何とかしてくれませんか」などと頼まれたことは、一度たりともありませんでした。

これは、小学生、中学生、高校生、高卒生を問わず、「国語ができないから、算数(あるいは、理科、社会)の文章題も……」という言葉は、受験生本人からはまず聞くことがないという事実です。

では、誰が言うのでしょう。

それは、保護者の方なのです。


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